山浦家で暮らした日々
(アジアの巣窟?と言われた住処)
学生時代の僕は、板橋区に下宿していましたが、
旅が長くなるにしたがって、下宿を引き払いました。
その後はしばらく、荷物を兄に預かってもらって、
姉夫婦の家に、転がり込んだりしていたと記憶している。
それが新たに、アパートを借りるようになったのは、
アメリカから帰国し、仕事をするようになってからでした。
日本文学学校に通って、今後をどうするか考えていた時期。
親しくなった友人の部屋を訪ねて、留守だった間に、
近くに喫茶店でもないかと、探してみたのです。
そこで見つけたのが、喫茶店かスナックのようでいて、
営業しているかどうかもわからない、怪しげな店でした。
近くに他に店はなかったので、おそるおそるドアを開け、
中を覗いてみたら、棚に漫画本がたくさんありました。
今でこそ「マンガ喫茶」のような店も、数多くありますが、
当時は珍しかったし、棚には見たい本が揃っている。
カウンターにいた人に、珈琲を頼んでみたら出てきて、
それ以来ここが、僕らのたまり場のような店になりました。
実はこの店こそ、その後長くお世話になる山浦さんが、
自分の財産を失い、奥さんが生活の糧に開いた店でした。
住宅設備の会社経営をしていた山浦さんは、友人の借金の、
連帯保証人として、自分のビルも取られてしまっていたのです。
そのビルの1階で、急遽始めた喫茶店のような店があって、
僕はそこに入り浸って、山浦家族と親しくなったのです。
何年か後には、そのビルの3階の1室を借りるようになり、
いよいよ山浦家が、ビルを出ければならなくなったとき、
僕も一緒に移住先を探して、そこに自分の部屋も確保します。
それは上の写真にある2階部屋で、横浜市中区の西之谷にあり、
ちょっと不思議な12畳ほどの部屋で、ガラス戸に囲まれて、
ガラス戸の向こうには、巨大な老桜木があったのです。
春の桜の季節には、ちょっと風が吹くと桜の花びらが、
部屋のまわりで踊り出すのが、何とも言えずに嬉しくなる。
僕はここを拠点に、横浜の町中を自転車で走り回り、
当時はまだ本牧には、戦後の米軍御用達の面影があり、
山手のドルフィンもあって、憧れの場所でもあったのです。
ここで何年も暮らす内に、山浦家の末の子が生まれ、
子どもは男の子が2人と、女の子が4人の6人になります。
生まれて間もない末の子を、暇そうにしていた僕が連れ出し、
まわりからは自分の子のように見られて、違和感もない。
東中野で初めて会ったとき、まだ6歳だった次女が、
成人するまで一緒に暮らしたのだから、長い同居でした。
旅に出るときは、荷物をそのままにしていたし、
住所もそのままで、本当の家族と同じに暮らしていた。
それは山浦さんの懐の深さで、僕は彼をパパさんと呼んで、
奥さんをママさんと呼んで、本当の家族のようでした。
この山浦家では、仕事の関係で住み込む若い衆もいたので、
食事は毎日10人分以上を作るのが、当たり前でした。
長男が高校を卒業後に、家業の仕事を継ぐようになり、
パパさんもようやく一息つきますが、苦難の人生だったはず。
だけど常に前向きで、好奇心を失わずに人と付き合って、
僕のような風来坊でも、家族のように扱ってくれたのです。
僕はいつも貧乏暮らしで、恩返しらしいこともしなかったけど、
今の僕の子育ては、山浦家から受け継いだものなのです。
パパさんが亡くなる前の年に、僕はたまたま定職にあって、
横浜まで何度も見舞いに行けたのは、奇跡のようなことでした。
癌で余命が短いと聞いたのが、その年の6月頃だったかな。
夏の沖縄行きでも寄ることが出来たし、その後も3回、
一度は家族で、ディズニーランドをかねて横浜にも寄った。
彼が亡くなって、僕はまた無職の男に戻りました。
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パパさん、ママさん、そして神様、
本当にありがとうございました
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