あれから22年

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自分が生きている間に、これほど多くの大震災が起きるとは、
思ってもみませんでしたが、神戸の震災こそその始まりでした。
その日の僕は、住居のあった横浜市中区の家から多摩の仕事場まで、
銀座を経由して通勤するために、早朝に起きて車を出しました。
午前6時前後だったと思いますが、カーラジオからのニュースで、
神戸に何か大きな地震が起きたことを、まず最初に知りました。

しかしそれ以上のニュースは、なかなか伝わってこなくて、
その原因こそ、神戸が壊滅的被害でニュースを伝えられなかった、
と知ったのは、かなり時間が経ってからだったと思います。
羽田を経由して銀座に着いた頃には、相当大きな地震が起きて、
神戸の高速道路が倒れている、と言うヘリからのレポートがあり、
東京のラジオ局も大騒ぎで、様々な情報が交錯していました。

銀座に同乗者を下ろし、そこから多摩市まで車を走らせる間に、
これはただ事ではない、と言うことが否応なく分かってきたのです。
職場についても同僚はみな地震の話題で、ヘリ以外に現地報告はなく、
地上は大混乱していることが、それだけでも分かると言うことです。
やがて僕は仕事に就いてしまい、それ以上の情報は分からないままに、
夜になって被害の大きさを知り、うまく理解できないでいました。

自然災害の少ない砺波平野で生まれ育ち、その後の人生でも、
大きな自然災害には遭ったことがなく、平穏に暮らしていたのです。
僕が経験していた災いは、沖縄の海での台風のうねりくらいで、
高さ5~6メートルのうねりの中で、船のエンジンが故障し、
ひたすらうねりの中腹を、底にも頂上にも行かないように走った。
その時でさえ生きた心地はせず、座ったまま立てないでいたのです。

家が崩れ、道路が壊れ、ビルまで倒壊するような地震の中で、
人間はどんな行動が取れるのか、自分なら何が出来たのか?
そして翌日に翌々日にと、被害があらわになってくると、
最終的には6434人まで、被害者の数は膨れあがったのです。
都市型地震の怖さを知ると同時に、やがて関東でも地震があると、
どのような準備や覚悟をすべきか、真剣に考えたのです。

そして関東ではなく、東北太平洋側で大きな地震があり、
その後の津波原発メルトダウンで、人災まで加わった。
世界の何処でも経験したことのない災害で、たとえ死なずとも、
生涯に回復できないダメージを受けて、今も苦しんでいる人がいる。
どうしてこんなことになったのか、この国の問題が噴出して、
少しずつですが、多くの人々の心で、何かが変わり始めたのです。

あれから22年が過ぎて、僕らはどれだけ変われたのか?
せめてその方向性だけは、揺るぎないものでありたいと思う。
自分があと何年生きるかは分からないけど、生きている限りは、
新しい時代を切り開ける生き方で、暮らしていたい。
抗いがたい天災のある国で、常に死を覚悟するからこそ、
潔く清くシンプルに、自然と共に生きていたいと思うのです。