(お金と地位)より(時間と信頼)

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今の時代に日本で暮らしていれば、人生の選択肢はたくさんあるし、
新聞テレビの情報に惑わされなければ、日々の自由度だって相当に高い。
僕の身近な人々の暮らしを見ても、学校へ行かない選択もあるし、
電気ガスなどの社会インフラに、頼らないで生きることだってできる。
どう生きるのか意志さえしっかりしていれば、誰に身を拘束されることなく、
自らの生き方を貫くことは、日本では案外簡単にできる時代なのです。

ところが現実の社会では、作られた価値感にしっかりと縛られて、
特にお金に縛られて生きる人が、あまりにも多いことに驚かされます。
最近では格差社会という言葉がはやっていますが、面白いことに、
格差社会とは何かと調べれば調べるほど、格差社会の一員になる感じがする。
つまり社会格差というのは、利権者によって人為的に作られている、
同じ信者を増やすことによって、補強され続ける構造物のようなのです。

はっきり言えば、人が生きている状態に格差などないにも関わらず、
そこに金銭価値を持ち込むことで、格差を創作しているのです。
さらに厄介なことに、社会的な富裕層とされる人々の大きな能力とは、
政治経済や行政と言った社会を作る立場にあって、これを操ることに長けている。
それなりに責任ある役職にいる人たちは、お互いの利権を連携して守り、
これをもって社会的責任にしているから、弱者が救われることはありません。

例えば議会や行政において、将来社会のためになる企画を考えても、
実行する段階において、利権者の利権者による利権者のための行動を行う。
信用とお金の循環において、気が付けば特定の個人や法人にお金が渡り、
お互いにお互いを認め合うことで、問題なくお金だけは支払われていくのです。
問題があれば「流れ」は止まるか滞りますが、誰も問題有りを望まないから、
常に問題はないことにして、事故さえも報告されずにお金は支払われる。

これが続けば社会に格差ができるのは当然で、社会のためと言いながら、
実は私腹を肥やすか、公金を自らの都合のいいように使いたい人が多いのです。
公共の立場から言えば、あるいは改革しようとする立場の人が見るべきは、
「問題を見出して、それを解決する」誠実さと能力のあるなしを判断することです。
できもしないことを引き受けて、何とか「問題なし」にしてお金を得るなら、
それはサギとも言える、いかにも現代的な政治行政の姿と言わざるを得ません。

公共のお金を使おうとする者は、それが偉いわけではないことを肝に銘じ、
人々の役に立つとはどういう事か、何をもって信とするかを示す必要があります。
いくらお金を使って何が出来たかの合理性よりも、もっと遙かに大切なのは、
公のお金が使われるところには信があると言う、信頼関係の構築でしょう。
行政がそれを管理するなら、金銭的経営よりも現場感覚を大切にして、
あらゆる立場の人から信頼を得られる人に、これを任せるべきなのです。

僕は去年の4月から、植物園園長と椿館館長を兼務する仕事をしましたが、
様々な事情から続けられないと判断し、一年間を過ぎたところで退職しました。
この一年間を通して、政治行政に対する不信が募っていった上で、
自らの生き方を貫くために、この仕事は辞退するしかないと考えました。
(お金と地位)より(時間と信頼)が大切、と判断したのですから、
これからはゆっくりと、命の時間を味わって生きようと思っています。