迫られた判断

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先日から自然農の実践者の集いで、打合せが続き、
我が家のように、小さな子どもがいる人はどうすればいいか、
何度も打合せが続いて、ようやく結論が見えてきました。
この実践者の集い全国集会は、日本各地で行われていますが、
小さな子どもがいる人は、なかなか出掛けて参加できない。
そこでせっかく富山で行われるのだから、これをチャンスとして、
小さな子どもがいても、参加できる仕組みを模索したのですが・・・

一般参加者の託児までは、面倒見れないとしても、
富山のスタッフ・メンバーだけでも、落ちついて参加できるよう、
ホールのあるコミュニティセンターで、託児室を用意する。
そんな準備をしてはいましたが、同じ館内で託児をしていれば、
一日中部屋に閉じこめるわけにもいかないし、館内を歩き回れば、
大騒ぎすることだってあるから、親は落ちついて参加できない。
と言うことで、今まで話し合いが続いていたのです。

無理をして参加しても、他の人の迷惑になる可能性が大きいし、
小さな子どもはいくら預けても、親は心配で落ちついていられない。
それならここは、無理をしないで今回も参加を諦めた方が、
誰もイヤな思いをしないで済む、と言う結論にいたりました。
せっかく富山での全国大会ですので、参加したいのも当然ですが、
全国から人を招くホスト側として、来客にイヤな思いをさせたくない。
となればやはり、妻の参加は諦めるしかなかったのです。

どちらが良いとか悪いとか、客観的な判断はできない中で、
それでもどちらかに決めなければならないときに、多くの日本人は、
いわゆる“落としどころ”を探して、一件落着にするのです。
誰かの迷惑になるなら、やっぱりここは我慢するしかない、
そう考えて身を引くから、全体が一枚岩になったように見える。
それは多くの不都合を抱えながら、なんとか問題を少なくしたい、
日本人が長年に育んできた“知恵”であるのかも知れません。

こうした考え方は、日本人なら日常的に持っているので、
例えば突発的な危機に際しても、あまり対立することなく、
誰かが我慢するようなことを、目をつむって受け入れたりする。
いいことか悪いことかと言うより、他に仕方のないことでは、
なるべく角が立たないように、丸く収めてしまおうとするのが、
古くからの日本人の考えからで、やっぱりこれは知恵なのでしょう。
あえて自分の望みを通すのは、あまりにもリスクが高いのです。