気多大社

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昨日は能登島水族館へ行くつもりで、車を走らせたのですが、
途中モーゼ・パークへ立ち寄ったり、渚ドライブウエイを走ったりして、
気多大社へ寄ったのは、すでに午前11時を過ぎていたようです。
僕としては、早く能登島へ行きたかったのですが、
妻は友人に縁結びのお守りを、渡したがっていたので、
ここで買い求めたいと言うから、暫く付き合うことにしました。

ところがこの気多大社に祭られている、大国主命というのは、
須勢理毘売(すせりひめ)と結ばれる際、須佐之男命から、
多くの試練を課せられ、それを乗り越えて結婚したとされることから、
類い希な縁結びの神社として、名を馳せている場所なのです。
縁結びのお守りを買うには、ちょうど良いばかりではなく、
今は「縁結び祭」の最中で、無料の縁結びおはらいまでやっていたのです。

当然のように、妻はこのお祓いを受けたお守りを渡したいと言い、
姫共々拝殿に上がって、しっかりお祓いを受けてきました。
これですっかり時間を食ってしまったのですが、ありがたいことに、
一緒にお祓いをした、「氣」の縁起物いただけたのでよかったのです。
この気多大社が祭っているのは、本殿後ろの一万坪の自然の森そのもので、
「入らずの森」と呼ばれる森が持つ“氣”こそ、価値ありそうです。

ところがこの森は、近年の調査で枝枯れや倒木が多いことがわかり、
森を守るために、隣接の土地に薬を撒くことが検討されています。
気持ちはわかるのですが、ひとたび人の手が加わってしまえば、
自然のバランスが崩れ、また新たな問題を引き起こさないとも限りません。
すでに自然界のバランスが崩れた世界が、周辺に広がっているなら、
入らずの森の運命は、人類の運命そのものではないのでしょうか。

耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで続いてきた日本文化も、
過大な産業経済活動で、入らずの森と同じ運命にあるのかも知れません。
それを思う時、森だけを守ってもあまり意味はないのではないか?
入らずの森の危機は、人類日本人の“氣”の危機と感じて、
この森の“氣”が、さらに豊かになるような文化社会を築けないのか?
そんなことを思う人が増えれば、社会も変わると思うのですが・・・

とんだ道草のあと、気持ちのいい場所でお弁当を食べたいと思い、
車を北に走らせたのですが、姫がむずがり始めたりして、
なかなか良い場所がなく、厳門まで行っておにぎりを食べました。
ここでもゆっくりしてしまったので、すっかり時間が無くなり、
とりあえず能登島までは行きましたが、水族館には入りませんでした。
予定通りにいかなかったドライブも、また楽しい思い出です。