吉崎御坊
帰郷中の兄の希望で、石川県と福井県の県境、
浄土真宗には欠かせない、吉崎御坊へ行って来ました。
1471年に、蓮如上人が開いたとされる吉崎御坊ですが、
これは京都の大谷本願寺が、比叡山僧侶にに襲われたときに、
難を逃れて吉崎にいたり、そこに御坊を開いて布教した、
これが真宗王国北陸の始まり、と言われているところです。
浄土真宗には欠かせない、吉崎御坊へ行って来ました。
1471年に、蓮如上人が開いたとされる吉崎御坊ですが、
これは京都の大谷本願寺が、比叡山僧侶にに襲われたときに、
難を逃れて吉崎にいたり、そこに御坊を開いて布教した、
これが真宗王国北陸の始まり、と言われているところです。
もともとは関西と北陸を結ぶ、交通の要所でもありますが、
今は本線を離れて、ひっそりとした場所になっています。
ここがどの程度賑やかだったかは、御坊の痕跡を見ていると、
大きな潟に陣取った、要塞のような作りでいながら、
全体としては風光明媚で、文化の要所だったことが察せられ、
港や問屋街の様子から、豊かな文化があったと思われます。
今ではこの地に、東本願寺と西本願寺があるほかに、
怪しげな本殿や宝物殿があって、何が本物かわかりません。
“嫁威し肉付面”もいろいろあるようですが、これは、
「面の真贋を問うより、私自身の真贋こそが問われるべき」
と吉崎東別院の案内にありまして、まことにその通りでしょう。
蓮如さんの布教の心も、そのようであったかと思うのです。
布教の要所というと、なにやら堅苦しい響きがありますが、
当時の御坊の様子とは、むしろ京都に繋がる文化の要所として、
遊郭や商家なども発達した、一大娯楽センターの様相だったとか。
井波の瑞泉寺などでも、遊郭は大切な文化だったので、
僕らはこうした日本文化を、正しく知る必要がありそうです。
日本の文学が、遊郭文学と言われたのもわかる気がします。
吉崎御坊の歴史的な事実関係は、よくわかりませんでしたが、
吉田桂二さんによる復元図が、想像力を掻き立てるので、
これを皆さんに紹介して、一緒に当時を想像してみたいです。
だいぶ大きめの図を入れましたので、クリックして拡大すれば、
たくさんの多屋(宿坊)が並んだ、吉崎の様子がわかります。
今の様子と比較してみるのも、興味深いものがありました。