姫を見守りながら

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我が家に姫が生まれて、17日目となりました。
その間に僕が一日中家を離れたのは、2日間だけで、
ほぼ毎日一緒に家にいて、妻と二人で子育てしています。
新米両親なので、何をやるにも何が起きても初めてで、
いろいろ戸惑いながら、なんとかこなしていますが、
寝不足も筋肉痛も、苦しいよりは喜びが大きいですね。

人間は何をするにしても、苦労は伴ってくるもので、
同じ苦労をするなら、やっぱり喜びに向かって苦労したい。
社会的には、みんなが納得のいく人生を送れるようにしたいし、
個人的には、社会がより良いものになるような暮らしがしたい。
そう考えれば、これが自分の一番望むところなのだから、
多少の苦労はしてでも、妥協のない生き方をしたいと思う。

それは池田晶子さんに習った、「善く生きる」ことであり、
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18/39871623.html
ベルナールに学んだ、「愛する」ということでもあるでしょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18/49957052.html
こうした先人がいなければ、今は信用ならない社会の中で、
自然農しか頼るものがなかった、と言えるのですが、
幸いにして僕は、イリイチやEFシュマッハーも知っている。

社会がどのように腐敗していようと、熟した実の中には、
かならず優れて味わいのあるものが、含まれていると思う。
いかにわずかであろうと、そうした味わいを頼りにして、
美味しい人生を過ごすことは、味わいを知る醍醐味でもある。
僕は田舎に戻ってから、足かけ14年間を暮らす中で、
思わぬ様々な出逢いがあって、今の生き方を選んできました。

こうした生き方さえ、毎日マスコミの話題に振り回されれば、
すぐに何だかわからなくなって、やがて忘れてしまうでしょう。
だけどマスコミを断って、自分で考えるようになれば、
自然とわかってくる、普遍の真実が道標なのです。
どのような道標があったかは、ブログに残してきたので、
時々記事を振り返りながら、明日を生きたいと思うのです。

そして今の僕にとって、この年にして妻と子を得たことは、
長かった放浪人生の締めくくりとして、ありがたいことなのです。
自分が生きた人生の最後に、思いを家族と分かち合うことで、
もう一度あらためて、過去の60年間を生きている気がします。
ただひたすら、感謝するしかありません。
ありがとう、本当にありがとうございました。