仕事と働き

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多くの人が、今ではあたりまえに思っているでしょうが、
仕事というのはお金を稼ぐことで、必ずしも労働ではありません。
同じように、いくら働いても仕事でなければお金にならず、
これが家事労働などにおいて、男女差別の原因になっています。
しかしどちらが人間生活にとって基本かと言えば、働くことであって、
食べ物を作る農作業も、家を造る大工や衣類を作る縫い物にしても、
必ずしもお金にならなくても、それは生活に役に立つことでした。

それではお金になる場合と、ならない場合とでは何が違うのか?
どうもこの仕事の“仕”の字にあるように、何かに仕えることが鍵で、
正確には宮仕え、いわゆる社会構造に仕えていなければなりません。
たとえば人の病気を治癒したとしても、医師としての資格がなければ、
それは違法な治療行為として、代金を受け取れないどころか、
場合によっては違法行為として、処罰される可能性があるのです。
この資格こそが、社会構造に仕えているかどうかの認証であって、
必ずしも、的確な治療行為が出来るかどうかではないのです。

社会構造に仕えていれば、それを担保に働かなくてもお金がもらえ、
そうでなければ、いかに能力があろうとお金にはなりません。
したがってお金が欲しければ、せっせと何かに働くよりも、
しかるべき仕事をすればいいわけで、そのために大学だってある。
いわゆる高等教育は、仕事の良し悪しよりも仕え方を学ぶ所なので、
実際に何も出来なくても、どこへ行けばいいかだけは学びます。
当然ながらこの宮仕え社会で、もっとも効率よく稼げるのは、
資格を与える側に入って、なるべく難しくしておけばいいのです。

もちろんこうした皮肉と共に、実際に働く人はいるわけで、
その働きが優秀であれば、たくさんのお金を稼ぐことも可能です。
社会には階層構造が作られて、頑張れば上に行けることになっている。
さらにその構造自体を守る人がいて、何も生産しなくても稼ぎ、
出来上がった社会構造と、これを守る人たちに支えられて、
お金を管理する人たちが、ボロ儲けをしているように見える。
しかし何が大切かと言えば、やはり生活のために働くことであって、
これが蔑ろにされると、人の幸せは遠のいていくようです。

気が付けば僕らは微妙なバランスの上にいて、適度な働きをして、
適度なお金をもらっていれば、なんとか無事に暮らしていける。
そうであれば、たくさんお金が欲しい人には好きなだけ差し上げて、
僕はなるべく少ないお金で、少しでも自由に自分を生きて暮らしたい。
先立つお金がないと何も出来ない、と思っている人もいますが、
先立つものにかまけている内に、老いさらばえて何も出来なくなる。
すべての人に平等に与えられている、限られた命の時間こそ、
今の自分が何をすればいいか、教えてくれるものだと思うのです。

限られた時間に、無限の富を追い求めても無駄でしょう。
まず知ることから始めればいいのでしょうが、この場合にも、
外側の現実を受け止めたなら、内側の自己と摺り合わせをして、
納得したことは合わせ、納得できないことには声を挙げて表現する。
だけど大切なのは、みんなが幸せになることでしかないのだから、
正しければいい!ってものでもない、で結局自分を生きるしかない。
そう考えると、やっぱり仕事よりも働くことに価値があると思うのです。