日々の明け暮れ
気が付けば、ブログを書かない日が3日続きました。
長期の旅か病気でもなければ、3日以上記事を書かないことは、
原則的にないつもりでいたのですが、それもくつがえり、
今は新しい事態を、全力で受け止めているところです。
今週は「ひとのま」で自然農の話をしてきましたし、
Nプロで7月のイベントに向けて、打ち合わせもありました。
えんかふぇで7月の食事会もあって、もちろん田植えも忙しく、
記事ネタはたくさんありましたが、書いている暇がなかった。
長期の旅か病気でもなければ、3日以上記事を書かないことは、
原則的にないつもりでいたのですが、それもくつがえり、
今は新しい事態を、全力で受け止めているところです。
今週は「ひとのま」で自然農の話をしてきましたし、
Nプロで7月のイベントに向けて、打ち合わせもありました。
えんかふぇで7月の食事会もあって、もちろん田植えも忙しく、
記事ネタはたくさんありましたが、書いている暇がなかった。
そんなに忙しいのかといわれると、忙しいとは何か?
たとえば「充実した何もしない時間」は忙しいといえるのか?
根源的な問いかけから、自分の暮らしを見直してもみる。
このところの僕は、12年に一度の変化を全身に受けており、
やるべきことの多さと、それ以上の充実に酔っているのかもしれない。
ここでこうして時間が過ぎていくこと自体に、喜びがあって、
自分の存在とは、そうした喜びの集大成かもしれないと思えば、
あらゆる一瞬が大切で、あらゆる一瞬が充実して感じる。
本当はもっと具体的に、適切な表現を練りたいけど、
今はともかく、この時間を大切にして生きていきたい。
そんな単純な喜びで、毎日が何もしないでも充実しているのです。
何もしないでも充実しているというのは、言葉の綾でもあって、
自分が関わって起きている事態に、寄り添っていることで、
刻一刻が命にかかわり、味わうに余りある時間を過ごしているのです。
この先どうなるのか、わかるようでわからないのが自然農で、
それが自らの生き方を、素直に受け入れる下地にもなっている。
去年から本格的に始めた馬畑は、実際にすぐ近くに馬がいて、
時々挨拶を交わしますが、馬はちゃんとこたえてくれる。
命あるあらゆるものが、命あることによってつながっており、
あらゆる存在が、その孤独を胸に繫がりを求めているからこそ、
僕らは奥深いところで求め合い、愛し合うことができる。
そんな思いを、共有して生きることができれば、
それ以上に大切なことなど、何もないとわかるのですが、
時代の価値観は、まだ遠くそこまでは至っていません。