人間として
日々の暮らしに追われて、月日が過ぎると、
時々ふと、これでいいのかと反省もしてみます。
若い頃には、反省が疑問になって不安となり、
このままではいけないと思って、焦ったりもしました。
だけど人間として、寿命の半分以上を生きてきて、
様々な場所で、多種多様な人と、多くのことに挑戦して、
人生は魅力的で、面白いと思えるようになると・・・
時々ふと、これでいいのかと反省もしてみます。
若い頃には、反省が疑問になって不安となり、
このままではいけないと思って、焦ったりもしました。
だけど人間として、寿命の半分以上を生きてきて、
様々な場所で、多種多様な人と、多くのことに挑戦して、
人生は魅力的で、面白いと思えるようになると・・・
学びたいことを学び、やりたいことに挑戦して、
行きたいところへ行って、知らなかったことを見てきた。
そうした人生のすべてのことが、今日の自分を作り、
さらにやりたいことに、自信を持って挑戦できる。
資金はないし、年齢も若くなくなって、縁者も少なく、
辛うじて市民活動を共にする人との、繋がりも希薄だけど、
言葉以上に、“存在”を実感するようになったのです。
ただここに生きて在ること自体の、雄大な脈絡に、
驚きを持って接し、五体と五感を研ぎ澄ませてみると、
先刻見えなかったものが、新たに次々と見えてくる。
メルロ・ポンティは、見えないものの存在を説いたけど、
人はたくさんの見えるものを、見ないことによって、
見えなくなってきているのではないか、と思うのです。
見ようと思えば見えたのに、見えなくしてしまったのなら、
一度見えなくしてしまったものも、また見えるなら、
どうすれば見えるようになるのか、気になるところです。
人間の本質に関わる、こうした問題に向き合うには、
長い年月の古から伝わるものに、何かヒントがありそうで、
僕はそこで、神話や神器を思い出してしまうのです。
鏡と剣と勾玉は何を意味し、何をもたらすものなのか?
その中でも一番の神器とされる“かがみ”とは何か?
日本の古神道が大切にする鏡の力とは、鑑みる力であり、
自分を映して鑑みるとは、自らを知ることに他なりません。
見えなくなったことや、わからないことはすべて、
自らを映し出す鏡の中に、わかるためのヒントがある。
とは言っても、人は長年の教育によって多くのものを捨て、
社会的な常識を身につけて、生活しているわけですから、
そう簡単に、本来の姿を映し出すことも叶いません。
小説や論文や、こうしたブログのようなものでも、
あるいは絵画や音楽や、あらゆる芸術的な創作活動とは、
常識を超えて自らを表現する、原初の自分との葛藤でしょう。
劣化した世の中の常識に対して、何が大切かを思い出して、
それをもう一度、多くの人々の目に触れさせること。
単なる批判でなく、自らを鏡に映して見えてくるものを、
多くの人と共有することで、世界を再構築し続けるのです。
・・・少々言い方は大げさになりましたが、
多くの人に見ていただく、ブログを書くと言うことは、
日々是世界革命の如く、新世界を楽しむことだと思うのです。
この楽しみを、訪問者の皆さんと共に分かち合えますように!