ハレケの循環

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日本文化には、晴れ着というものがあります。
単なるおしゃれではなく、ファッションでもなく、
晴れ着はハレの日にしか着ない、特別なものです。
このハレの日とは何かと言えば、ただ快晴の日ではなく、
今まで曇りや雨だったものが、一転晴れた日だけを、
「晴れた」と呼び、毎日晴れるとは言わなかったので、
晴れ着を着続けることも、有り得ないことでした。

そもそもハレとは、日常のケが枯れたときに、
ケガレを払うために用意された特別な日なのです。

なぜこんな話をするかと言えば、祭りを考えたとき、
日常生活「ケ」の中で、澱のように溜まった憂さを払うため、
日本人は非日常の「ハレ」を使って憂さ晴らしをした。
つまり「ケガレ」を「ハラウ」ことで元気を取り戻したのです。
この「ケ」は「気」であり。「ハ」は「破」ではないのか。
すなわち人間の日常は「気」であると見た日本人は、
「気枯れ」を「破らう」ために「破れ」の日を用意した。

こう考えれば、
★日常的な「元気」が一番大切な基本で、
★日常の憂さによる「気枯れ」が出てくると、
★この憂さを「破らう」ために、
★特別な「破れ」日を用意して元気を取り戻した。
と考えられます。
「ハレ」の後に来るのは、元の「ケ」ですから、
これによって日本人は元気になった。
なんとうまくできた循環ではないでしょうか!

僕らは循環型社会を考えるときに、物にばかり目が行って、
精神や心の大切さを、後回しに考える傾向がありますが、
日本文化における循環型社会とは、物ばかりではないのです。
江戸時代の日本で、時々天変地異による不作や飢饉はあっても、
全体として社会が循環を維持できていた背景には、
幕府の武力ばかりでなく、土着思想としての循環があった。
これが日本の津々浦々まで浸透していた文化力でしょう。

そうすると、忘れてはいけないのが日常の大切さで、
祭りやイベントは、あくまでも非日常の「ハレ」ですから、
日常である「ケ」を元気にするものでなければならない。
主役は日常の元気であり、いかに日常を元気にできるかが、
祭りやイベントの開催意味であると思うのです。

「気枯れ」た日常を「破らう」特別な「破れ」の日、
果たして僕らは、そのようなイベントができているのだろうか?
行政の予算を取り合って、経済振興ばかり考えるイベントは、
そろそろ清算してもいい時期に、来ていると思うのですが・・・
イベントに生活を掛ける人が出てきてしまうと、
何が「ハレ」やら「ケ」やら、わからなくなるので、
せめてお金経済を超えた、祭りやイベントをしたいものです。
 
 
写真は、まみあな時代のコンサートの一つです。