日本的な?人情八百長

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このところ、大相撲の八百長問題がマスコミを賑わせています。
日本相撲協会の放駒理事長(元大関・魁傑)は、2日の会見で、
「過去に一切なかった、新たに抱えてしまった問題」と述べていますが、
今回関与を認めた元前頭・春日錦=現竹縄親方(写真)は、
三年前に八百長問題で講談社と裁判を争い、最高裁で勝訴している。
すなわち、裁判では「八百長をしていない」ことになりましたが、
実際にはやっていたことが、明らかになったと言えるのです。

大相撲と八百長は、昔から何度も取り沙汰されてきましたが、
その都度否定されて、今回はメールが残っていたから言い逃れられない。
よく言われることですが、日本人の多くは八百長はあると思っていて、
その理由は今回発覚したとおり、収入の安定を求めてのことでした。
ここで負けると幕下に落ちる、落ちれば月収100万が10万になるので、
それなら20万円を支払っても、勝たせてもらいたいというわけです。
金勘定が優先するビジネスの社会なら、当然の判断でしょう。

ところが今回は、これが大相撲の世界だからダメだと言われる。
すべての力士の全取り組みが、真剣勝負でなければならないと言うのは、
本当にすべての相撲ファンが、そんなことを期待しているのだろうか?
と疑問に思うし、そうでなくてもいいような気もするのです。
そもそも八百長とは、明治時代に八百屋の長兵衛が商売繁盛のため、
わざと得意客に囲碁を負けて、売り上げを伸ばしたことから来ていますが、
日本人はそうした「負けて勝つ」ようなことが、昔から好きなのです。

当たり前のことですが、大相撲に八百長があるからと言って、
すべての取り組みが勝敗を仕組まれたものではなく、実力は必須です。
一生懸命稽古をして十両まで上れば、一流企業に就職したようなもので、
よほど将来有望な力士でなければ、その地位を守りたい一心でしょう。
そんな時に七勝七敗にでもなれば、20万30万円を支払ってでも勝ちたい、
合理的な現代人の発想としては、ごく自然なことではないかと思うのです。
見る者も、それが社会の仕組みと思いながら見ていたのではないか?

日本相撲協会を何か特別なものと見ないで、一つの大企業としてみれば、
企業内では様々な思惑や競争や、足の引っ張り合いだってあるでしょうし、
そんな中で、困ったときに助け合う互助会的なものが八百長だった?
現にこの竹縄親方を見ていると、勝負師と言うより企業の重役で、
心の優しさ故に、弱い者を助けることを否定できなかったのかも知れない。
あるいは生活の安定を求めたが故に、早々と親方になったのかも知れない。
それでも名勝負はあるので、僕らはそれを楽しめばいいのでは・・・
 
安定した大企業になった大相撲には、
もう公益法人の資格なんか相応しくないのでしょう!