仏壇を開く

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昨日「たまにはお花を!」と、きれいな花を届けてくれた人がいました。
ひまわりとスイートピーのようですが、くすんだところが一つもなく、
全身がハツラツとした生気に満ちて輝いている、健康そのものの様子です。
どこに飾ろうかと、花器を探し出して飾り付けたまではいいのですが、
置く場所が定まらずに、仏壇に供えようと提案されてこんな風になりました。

最近は兄か姉が訪れたとき以外、自分では開くこともない仏壇ですが、
浄土真宗瑞泉寺門前町として開けた井波の町家で、いちおう立派なものがある。
掃除もしていないのですが、こうして花を活けてお線香をくゆらせれば、
それなりに、ご先祖さまと話をする雰囲気にもなるから不思議です。
話すと言っても、自分のことはもう無いのですが、新しく縁のあった人を、
それとなく紹介して、行く末のことを祈ってみたりもしたのです。

「神仏は信じるけれども頼らず」と言ったのは、武蔵だったでしょうか?
それも後世の作者が書いただけですから、本当はどうだったかわかりませんが。
現代では「頼る」ことも「信じる」ことも、非科学的のように思われますが、
科学も一つの信仰に過ぎないと知れば、神仏信心もまた同じに一つの価値観です。
絶対的価値観をどこに置くか?の選択で、宇宙の根本原理を「愛」だと知れば、
科学も神仏もその掌の一現象として、大切に扱えばいいとわかります。

その上で仏壇に向かい、亡き父母やご先祖様に手を合わせて話をしてみると、
ろうそくはジージーと音を立てて、炎が不規則にふるえながら揺らめくのです。
仏壇を開いた部屋で、この夜に僕は一つの試みに挑戦しようと決めました。
決して強引にではなく、自然な流れを読みとる営みの中で自分を解放し、
僕が愛する一つの閉じられていた新しい世界に、進んで踏みいることを決めて、
その痛みは自分のこととして、どこまでも背負っていこうと決めたのです。

人が人を愛することは、必ずしも甘いことばかりではありません。
神の愛とは違って、不完全で不器用でがさつでへたくそで失敗もする、
そんな欠陥だらけの愛に、価値や意味があるのかと訝しむかもしれないけど、
愛はいつどこでどれだけ不完全であっても、愛として燦然と価値がある。
なぜなら、それ以外に僕らが頼るべきものなど何もないと言えるからであり、
この愛に頼るからこそ、僕らの存在には限りない意味と価値が生じるからです。

すべての命あるものが、幸せのよりどころとしている愛の意味について、
人はまだその「何である」かを必ずしも知らないとしても、面影はわかります。
おぼろげなその姿を頼りに、時には痛みを押しても成し遂げることもあり、
その事実を心の痛みとしながら、それでも試行錯誤して前へ進んでいく。
手探りではあっても、僕らは愛を信じるしかないのですから・・・