平野の海
今年の石垣島滞在は、車が自由に使えなかったこともあり、
そのほとんどの日々を、平野の海で過ごすことになりました。
この写真に写っているのが、普段泳いでいる海の様子ですが、
実際には、上の写真の右端と下の写真の左端が繋がります。
そのほとんどの日々を、平野の海で過ごすことになりました。
この写真に写っているのが、普段泳いでいる海の様子ですが、
実際には、上の写真の右端と下の写真の左端が繋がります。
基本的にこの海は、潮の時間によっては流れが極端に速くて、
いったん潮の流れに嵌ってしまうと、簡単には抜け出せません。
特に無人島までの途中の浅瀬や、リーフ内に切り込んだ深みは、
大きなフィンでもグイグイ体を持って行かれてしまうのです。
僕らは毎日の潮時間や、低気圧の情報などを慎重に考慮しながら、
さらに実際に海の様子を観察して、その日のルートを決めます。
それでさえも、上から見た限りではわからない流れなどもあって、
今回は三日間降り続いた雨の後で、異常な流れも体験しました。
確か中潮の干潮に近い時間帯で、いつもは潮の流れの緩い時間に、
灯台下から西のプールに向けて泳ぎだしたところ、逆流が強く、
体力を消耗するほど全力で泳がないと、前に進まなかったのです。
急遽予定を変更して行き先を変え、仲間にその旨を伝えました。
見かけは穏やかで美しく、様々な命を宿してたたずむ海の中は、
必ずしも優しいばかりではなく、激しい熱の脈動が波打っている。
この海で僕は、学生の頃から長いあいだ多くのことを学んできて、
今また新たな気付きで、次のステップを模索し始めたのですが。
今日になっても僕は、まだ何から話せばいいかがわからないまま、
ただその動き始めた新しい潮流にしたがい、新しい人と会うのです。
徐々に準備されていた様々なことが、時を得て繋がり動き出すとき、
適切な時期にこそ種子が芽生えるように、何かが姿を現すのです。
平野の海の全体に散らばった、いくつもの愛すべきポイントは、
そこに人の五感と五体が介在することで、祈りの対象となります。
多様な命との出会いが祈りの対象となって、次々に実現する中で、
人の願いや祈りの大切さと、その強大な力が認識されるのです。