最大多数の最大幸福とは?

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4月11日放送の、マイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」では、
“命に値段をつけられるのか”としたテーマで、議論が展開されました。
これは、政治が何を目指せばいいかの指標として、よく持ち出されるところの、
ジェレミ・ベンサム(写真)の功利主義を、いくつかの違う視点から眺めるもので、
「最大多数の最大幸福」を測定できるのかどうか、と言う問題でもあります。

「すべての便益の合計から、代償を差し引いたとき、幸福が苦痛を上回るか」
と考えて、「費用便益分析」によって導かれる幸福量の計算というものは、
しかしよく考えてみれば、違う価値観の人が同じ数字で納得するはずもない。
あるいは“命”のように、どのように換算できるかわからないものもあるのに、
企業などは、すべておカネ換算で経済的な損得を考えていいのかどうか?

こうした疑問に対して、ジョン・スチュワート・ミルは高級と低級を持ち出し、
その区別の方法は、「両方を経験した人が選ぶほうが、より好ましい喜びだ」
と、どこまでが主観でどこまでが客観かわからないことを言いだすのです。
西欧の価値観だけが正しい価値観だった18世紀なら、まだ理解も出来ますが、
現代のように、多様な価値観が同じレベルで議論される時代においては、
どのような価値観であれ、客観的にどちらが“高級”であるとは言い難い。

とすれば、費用便益分析による幸福量の計算なども、怪しくなってくるし、
そのような計算による「最大多数の最大幸福」も、信じることは難しくなる。
さらに言えば、これを多数派の政治力として、強制的に行うことになれば、
少数派は耐え難い苦痛を受ける可能性が高くなるのを、避けられないでしょう。
商品のように選択可能な物と違い、政策としての功利主義は問題が大きくて、
一見公平に見える通貨による価値基準さえ、通貨そのものが問題だったりする。

このように見てくれば、今回のテーマである“命の値段”なんて不可能ですが、
たぶん多くの功利主義を擁護する人は、計算式の素材が不十分だっただけで、
費用便益分析による最大幸福の追求は間違っていない!と言うかも知れません。
でもやっぱり明らかに間違いで、おカネ自体が相対的価値でしかないから、
これで人生の価値を計ろうとしても、幸福の実感にはなりにくいのです。

ところがこの番組のあと、民放で興味深い番組をやっているのを見ました。
現役をリタイアした職人たちが、アフリカのウガンダへ出掛けていって、
子どもたちの給食設備を作ったり、井戸を掘ったりしている番組だったのです。
ここでは確かに「最大多数の最大幸福」が、疑問の余地なく追求されており、
功利主義は正しい判断基準のように、思われなくもない、これは何故なのか?
ここで初めて、規模の問題やおカネの問題が、大きく浮上してくるのです。

規模が小さいときには正しい事業でも、大きくなると弊害が出てくること、
最初は便利な交換通貨であったおカネが、金融利子によって怪物に化けること、
こうした様々な技術の“意味の変容”が、10年前に課題だったはずなのに、
何も解決できていないことが問題であり、複雑さによって膠着しているのです。
例えば生産や消費を拡大から縮小へ転換しながら、同時に豊かさを犠牲にしない、
そのような発想の転換自体が必要だから、今哲学が求められているのでしょう。