普天間基地の返還へ!

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第二次世界大戦で、日本で唯一の地上戦とはどんなものだったのか?
45年4月から5月にかけて、那覇市周辺では壮絶な戦いがあり、
最後にシュガーローフ(那覇市おもろまち丘陵地)の戦いでは、
日本側に、2700人の戦死者と、1300人の精神障害者を出しています。
1300人もの人が精神に異常を来たした戦いとは、どんなものか?
40日間続いた戦闘では、日本軍主力部隊の80%(64000人)が失われ、
米軍もまた、26000人の戦死者を出した戦いだったと記録されている。

この戦いの後に、戦火は沖縄本島全体に広がっていきます。
現在様々な慰霊碑が並ぶ摩文仁に、追いつめられた沖縄守備軍は、
6月11日に無条件降伏を勧められるも、牛島司令官はこれを無視。
18日には、米軍の占領部隊総司令官バックナー中将が戦死して、
凄まじい報復攻撃が始まると、22日には摩文仁も米軍に占拠される。
ここで牛島司令官と長勇参謀は、戦い続けることを命じて自決したために、
沖縄の住民は、いつ終わるとも知れない恐怖の中に居続けたのです。
敵に知られるのを恐れて、多数の住民が殺されたのもこの時でしょう。

司令官の自決によって、集団的戦闘の終わった6月23日を、
沖縄の終戦日とする考え方が、今では一般的になっていますが、
実はこの後も、米軍と日本軍の散発的な戦いは続いており、
そのために多くの一般市民が、銃や火炎放射器の犠牲になっている。
米軍の沖縄作戦終了が宣言されたのは、7月2日のことだったのです。
さらに日本は戦争を続け、8月15日にようやく終戦を迎えますが、
沖縄ではその後も米軍の占領が続いて、たくさんの基地が作られます。

やがて沖縄は日本への復帰を果たしますが、戦後65年を経てなお、
沖縄には膨大な面積に、数多くの米軍基地と軍人が駐留を続けています。
この治外法権の勢力が居座る島に、人々はどんな思いで暮らしているのか?
沖縄の人たちが、何を望んで基地の返還を求めているか?を考えるときに、
基地で働く労働者の経済的問題がどうのこうのなど、屁理屈でしかない。
もともとその賃金以上のものが、日本人の税金で賄われているのですから、
米軍が出ていって、経済的理由で困ることなど何もないのです。
あるのはただ米軍の軍事的理由だけであり、日本政府は逆らえない。

これがもしも日本の自衛隊基地であったなら、こんな危険な基地は、
撤去されて当然どころか、建設そのものがされなかったでしょう。
僕らの住む南砺市でも、60年前には朝鮮戦争のあおりを受けて、
占領米軍の家族を守るための、自衛隊基地を作る計画が持ち上がります。
その予定地、立野ヶ原は、旧陸軍演習場だった場所ではあるのですが、
戦後に開拓団として入植していた土地の住民は、猛烈な反対運動を始める。
「測量隊が一歩でも入れば血の雨を降らす!」と総決起したのです。

実際に犠牲者まで出す激しい闘争をして、計画は中断を余儀なくされ、
当時の吉田首相が、国会で断念の表明をして、この計画は頓挫する。
このお話は、ブログ「なんと万華鏡」に書いてあったものを引用しました。
http://5698.blog.nanto-e.com/detail-46132.html
それが米軍基地となると、日本はいまだに自由に決められないのです。
自民党がダメで、政権交代した民主党もダメなら、この国は独立国ではない。
日本政府は日本国民の利益よりも、米国の利益を優先しているのです。
あるいは、日本政府が自主的な判断をすれば、米国から攻撃を受けるのか?

この現実を思うにつけても、僕は日米政府に強く抗議すると同時に、
戦争や軍事支配がいかに理不尽なものかを、思わずにはいられないのです。
スティグレールが言うところの、ゼウスが与えた人間の特性である筈の、
ディケ(正義)とアイドス(恥・慎み)はどこへ行ってしまったのか?
法はイデア的な規則でも規律でもないのなら、誰がどう解釈すべきなのか?
主権者である国民の意志によって、この国が治められる日が来ることを、
米軍基地に苦しむ沖縄の人たちと共に、望まずにはいられません!

写真は2004年9月、
普天間飛行場の早期返還を求める宜野湾市民大会」に集まった人々!