黄金のシカン文化

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ちょうど日本では、平安京の文化が栄えていた頃、
地球の反対側ペルーでは、シカン文化が栄えていたそうです。
プレ・インカ文明の代表的な一つである、このシカン文化は、
日本人考古学者の調査によって、大掛かりな発掘が行われ、
膨大な発掘品と調査結果の概要が、TBSで紹介されています。
その一環でもある「黄金の都シカン展」が富山で開催され、
入場券をいただいたので、富山へ行ったついでに見てきました。

会場に入ってすぐの解説で、感慨深く思ったのは、
シカン文化が栄えたのは、およそ千年前とのことなので、
それは源氏物語が書かれた時代だ!ってことでした。
日本の場合は、様々な栄枯盛衰と政権交代はあったものの、
それらは歴史として残っているのに、シカン史は残っていない。
考古学者が掘り出すまで、千年近くも土中に眠っていたことが、
むしろ不思議なことのように、思われてしまったのです。

インカ文明は、スペイン人に滅ぼされたとわかっていても、
プレ・インカ時代に起きた、いくつもの文化の盛衰は何だったのか?
当時の様子を知る文献はない中で、考古学はどこまでわかるのか?
そんなことを思って見ていたら、興味深い事実が紹介されていました。

大きな墓に埋葬されていた人骨群を、科学的に解析したら、
中央で支配者と思われる埋葬者の周囲に、二つのグループがあって、
一つは親族と思われる血のつながりがあり、栄養も豊かだった。
いっぽうもう一つのグループは、血縁はバラバラで栄養も劣っている。
すなわち、一族が暮らす地域だけではなく、広く人々が集まって、
それが一緒に埋葬されるような、緊密な関係にあったと言うのです。
さらに、この人たちの文化は金属加工の技術を持ちながら、
あまり武器らしいものがないようで、平和の人々でもあった。

実際に遺跡から出土された、多くの装飾品などを分析すると、
使われている金属や原料は、必ずしも近隣で手に入るものではなく、
アンデスの一体にある採掘場や海山から、集められたものだったのです。
武力で相手を打ち負かせて集めたのではなく、交易によって集め、
それが一つの特徴を持つ文化となって、栄えていたと言うことでしょう。
スペイン人がやってきて、簡単に滅ぼされた理由の一つは、
武力による略奪や争いというものを、知らなかったからではないのか?
そんな夢を見させてくれる、プレ・インカ文明の存在だったのです。

黄金を高度な技術で加工した、シカン文化の人たちは、
王座にあって、きらびやかに身を飾る装飾品はそろえていても、
西欧の王たちに見られがちな、武器というものを持ちません。
持っているのは、指導者であることを示す貝飾りのある杖だけです。

人骨からの復元顔像を見ると、日本の先住民族のような顔立ちで、
アイヌなども、武器による人間同士の殺し合いはなかったようですから、
案外同じDNAの文化を持った祖先なのかも知れませんね。
そんなことを考えながら、あらためてマヤのことも思い出しました。
僕は学生の頃に、メキシコをふらふらしていたことがあって、
そのときユカタン半島マヤ文明にも、少し興味を持ったのです。
彼らも戦士は死を恐れないのですが、それは人を殺すよりも、
神話的な勇者であり、勝者の栄誉が「死」だったりするのです。

当時としては、広大な地域の人々と交流をしていながら、
武力による支配ではなく、シカン神を通して繋がっていたか、
あるいは武力や富よりさらに深い何によって、繋がっていたのか?
真相はこれから解明されるのか、いつまでも謎のままなのか?
いずれにしても、これから新しい文明の在り方を考えるときに、
何か大きなヒントになるのではないかと、思い描いてしまうのです。
そして武力で何が滅ぼされようと、延々と続くインカの末裔は、
持続可能な文化の在り方さえ、示しているのかも知れません。