綿貫邸にて
写真は、元衆議院議長を勤められた綿貫民輔さんの私邸居間で、
南砺市文化財審議委員長の千秋謙治さんが、講義をされているところ。
と言っても、今回の千秋先生の講義は、井波の歴史にまつわるお話で、
散居村ミュージアムで開催された「となみ散居村を学ぶ」の第3回、
井波城、招魂社、臼浪水、井波八幡宮の由緒などを学ぶものでした。
千秋先生のお話は、いつも話が脱線して、それが面白いのですが、
今回は大型バスを使って、現地を訪れながらの講義となったために、
綿貫さんとも親交の深かった先生は、僕らを私邸に入れてくれたのです。
今でこそ国会議員でもない綿貫さんですから、警備もありませんが、
彼が衆議院議長だった頃は、24時間警備があったとの話も聞きます。
もちろん僕も家の中はおろか、門の中にも入るのも初めてでした。
かなり大勢だった僕ら受講生は、ちょうど秋祭りの祭事中のところへ、
ぞろぞろと押し掛けて、しかも千秋先生は居間に座り込んでのお話です。
そこに飾られていた、大臣拝命時の任命書は、天皇の手書き署名があって、
捺印の場所も、通常の書類に見られる印の場所とは少々違います。
そんな貴重なもの、あるいは綿貫さんが所蔵されているお宝の話など、
千秋先生は、まるで自宅のようにくつろいで話されたのです。
僕らも、まるでおのぼりの観光客のように、写真を撮りまくり、
部屋の中をウロウロと歩き回って、奥庭の写真まで撮り始めました。
それでも、民輔さんの奥様でしょうか、いやな顔もなさいませんでした。
おかげで僕らは貴重な体験をして、失礼な写真を撮りまくり、
大喜びで綿貫邸を後にして、さらに屋外講習を続けたのでした。
他にも私邸内の写真はありますが、公開は差し控えておきましょう。
まるで脱線ばかりしているような、千秋先生の講義でしたが、
井波町の名前の由来となった、綽如上人の馬が井戸を示した場所から、
そのに建立された瑞泉寺が、何故今の場所に移されたか?などなど、
さらには八幡宮横の蚕堂の話まで、しっかり聞かせていただきました。
戦没者慰霊の神社は、各県に一つしか建てられない決まりだった当時に、
井波にだけ、特別に慰霊の招魂社が建てられた話も興味深かったです。
自分が生まれ、子ども時代を過ごした井波町の歴史は古くて、
古文書に記録があってからでも、すでに600年以上が経っており、
さらに古くから、砺波平野は朝廷の荘園として栄えていたと聞きます。
その間に何度も戦や一揆や火事があり、古いものは残っていません。
そんな中で、500年前の一向一揆当時すでに「追手門の大杉」
と呼ばれた杉が、今も松島大杉として残っていると聞きました。
人が滅びても、この星には緑の木々が生い茂るでしょう。
南砺市文化財審議委員長の千秋謙治さんが、講義をされているところ。
と言っても、今回の千秋先生の講義は、井波の歴史にまつわるお話で、
散居村ミュージアムで開催された「となみ散居村を学ぶ」の第3回、
井波城、招魂社、臼浪水、井波八幡宮の由緒などを学ぶものでした。
千秋先生のお話は、いつも話が脱線して、それが面白いのですが、
今回は大型バスを使って、現地を訪れながらの講義となったために、
綿貫さんとも親交の深かった先生は、僕らを私邸に入れてくれたのです。
今でこそ国会議員でもない綿貫さんですから、警備もありませんが、
彼が衆議院議長だった頃は、24時間警備があったとの話も聞きます。
もちろん僕も家の中はおろか、門の中にも入るのも初めてでした。
かなり大勢だった僕ら受講生は、ちょうど秋祭りの祭事中のところへ、
ぞろぞろと押し掛けて、しかも千秋先生は居間に座り込んでのお話です。
そこに飾られていた、大臣拝命時の任命書は、天皇の手書き署名があって、
捺印の場所も、通常の書類に見られる印の場所とは少々違います。
そんな貴重なもの、あるいは綿貫さんが所蔵されているお宝の話など、
千秋先生は、まるで自宅のようにくつろいで話されたのです。
僕らも、まるでおのぼりの観光客のように、写真を撮りまくり、
部屋の中をウロウロと歩き回って、奥庭の写真まで撮り始めました。
それでも、民輔さんの奥様でしょうか、いやな顔もなさいませんでした。
おかげで僕らは貴重な体験をして、失礼な写真を撮りまくり、
大喜びで綿貫邸を後にして、さらに屋外講習を続けたのでした。
他にも私邸内の写真はありますが、公開は差し控えておきましょう。
まるで脱線ばかりしているような、千秋先生の講義でしたが、
井波町の名前の由来となった、綽如上人の馬が井戸を示した場所から、
そのに建立された瑞泉寺が、何故今の場所に移されたか?などなど、
さらには八幡宮横の蚕堂の話まで、しっかり聞かせていただきました。
戦没者慰霊の神社は、各県に一つしか建てられない決まりだった当時に、
井波にだけ、特別に慰霊の招魂社が建てられた話も興味深かったです。
自分が生まれ、子ども時代を過ごした井波町の歴史は古くて、
古文書に記録があってからでも、すでに600年以上が経っており、
さらに古くから、砺波平野は朝廷の荘園として栄えていたと聞きます。
その間に何度も戦や一揆や火事があり、古いものは残っていません。
そんな中で、500年前の一向一揆当時すでに「追手門の大杉」
と呼ばれた杉が、今も松島大杉として残っていると聞きました。
人が滅びても、この星には緑の木々が生い茂るでしょう。