“楽しい”か “虚しい”か

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僕は人生を切り開く一つのキーワードとして、
「遊び心」を大切に考えて、生きてきたつもりです。
ところで、生活を「楽」にすることで豊かさを演出してきた筈の、
現代文明が、なぜ心の豊かさを失って虚しさを感じさせるのか?
それぞれの言葉自体が持つ、成り立ち的な意味合いから、
ある種の興味深いことに、関心を持っています。

「楽しい」の“楽”は、「楽をする」の“楽”でもあるけど、
何もしないことではなく、むしろ何かをする「楽しみ」のことです。
ところがそれを自分でやらずに、人にやってもらったり、
お金で済ませてしまったりすれば、「無成す」ことになる。
自分でやるから、苦楽も味わえる世界があるのに、
他人やおカネに任せると、何も味わえないと言うことです。

こうして見ると、暮らしの中の様々な事柄に対して、
自分で直接取り組み、食べ物を作ったり縫い物をしたりすることが、
いかに味わい深く、豊かなことであるかがわかるでしょう。
それに比べて、ただおカネを稼いで買い物をするだけの生活では、
ひたすら人生を虚しくしている、と言っていいでしょう。
これではいくらおカネがあっても、豊かな人生など味わえません。

おカネによる消費するだけの生活では、期待だけがあって、
実際には何も楽しめていないのですから、やがて虚しさが募る。
稼ぐだけ稼いでも、生きる実感を得るために農作業を始める人がいたり、
億万長者の楽しみが、結局パチンコでしかなかったりするのは、
とても豊かな人生を楽しんでいる姿とは思えません。
人生を楽しむには、楽しむだけの直接的な携わりが必要なのです。

おカネで買い物をするだけの暮らしは、人生を「無成し」ている。
だから必ず心が満たされることもなく、さらに買い物をしたくなるけど、
商品とは幻想の期待でしかないので、いくら買っても満足はしない。
それでは「楽しい」の語源はと考えたとき、「田伸す」と気付きました。
自分が携わる田畑を広げる意味で、これは実感があって楽しいから、
自らの五感と五体で、創意工夫しながら暮らすことに満足がある。

さらに「伸す」は、「成す」の東北方言ともなっているようなので、
これはもう“田”か“無”かの世界になってしまって面白い。
工業化がいくら進もうと、IT化がいくら広がろうと、
この先千年を過ぎても、人の暮らしの主役は食べることです。
作物を作り、食事を作り、その空間を演出することこそ、
豊かで楽しい人生の基本に変わりはないでしょう!


写真は、5年前の「まみあな」での感謝会で、全部手作り料理です♪