喜ぼしの国
古い日本語に、主語が明確に記されていなかったのは、
述語の内容が、必ずしも発語者のものとは限らないからで、
そこには同時に、神だったり人々だったり霊魂だったり、
即ち自分以外のものを含むことは、以前にも言及しました。
そこに自分が一歩引く、謙譲の美徳があったわけですが、
謙譲語がいつのまにか、人為的な階級用語になってしまって、
やがて形骸的な用語に堕してしまったのだと思われます。
例えば“喜ばしい”と言うような表現をするとき、
私が喜んでいるのか? あなたが喜んでいるのか?
と考えてみれば、これは“みんなが喜ぶような”となる。
国家というものが囲い込む世界にも“みんな”はあるけど、
“喜ばしい”心は国を超えて、世界中の人々を超えて、
この星に生きる命のすべてに向けた言葉にもなるのです。
これが日本の、八百万の神の求めたものだと思います。
西欧諸科学文明に限界を感じて以降の学問の世界では、
ポスト・モダンって言い方で、新しい価値観を探しており、
東洋の哲学に、その行方を求めたりするようですね。
だけど彼らは、一神教信仰を捨てるわけではないので、
みんなが喜ぶことがあるとすれば、それこそ一神教であり、
唯一神の意志だからこそ、個人を超えた価値があると考える。
個々の人々が認められるのは、神の下の平等なのです。
もしかしたら、こうした根元的な発想が違うから、
日本での民主主義は育ちにくいのかな?と思うのですが、
それならそれで、日本型の民主主義を考えればいいでしょう。
思想的な国民主権や、教条的な倫理観を超えて、喜ばしい!
天皇制が、今も国民に対して某かの力を持っているとすれば、
こうした根元的な発想の中にあることを知るべきだと思います。
百年の計で見れば罪深くとも、千年の計では功多いのかも。
花粉症に悩まされながらも、暖かい四月の風に吹かれて、
個々は少しずつ膨らみ、全体にそこはかとなく色めいた桜に、
何思うともなく、そんなことを浮かべてひととき過ごしました。
この写真は、初めてデジカメを手に入れた頃に撮った一枚で、
今でも自分が撮った桜風景では、一番のお気に入りです。
桜が咲いて誰もが心浮かれる、この国は喜ぼしの国♪
ジョン・レノンが見た夢は、どんな喜ぼしの世界かな?
述語の内容が、必ずしも発語者のものとは限らないからで、
そこには同時に、神だったり人々だったり霊魂だったり、
即ち自分以外のものを含むことは、以前にも言及しました。
そこに自分が一歩引く、謙譲の美徳があったわけですが、
謙譲語がいつのまにか、人為的な階級用語になってしまって、
やがて形骸的な用語に堕してしまったのだと思われます。
例えば“喜ばしい”と言うような表現をするとき、
私が喜んでいるのか? あなたが喜んでいるのか?
と考えてみれば、これは“みんなが喜ぶような”となる。
国家というものが囲い込む世界にも“みんな”はあるけど、
“喜ばしい”心は国を超えて、世界中の人々を超えて、
この星に生きる命のすべてに向けた言葉にもなるのです。
これが日本の、八百万の神の求めたものだと思います。
西欧諸科学文明に限界を感じて以降の学問の世界では、
ポスト・モダンって言い方で、新しい価値観を探しており、
東洋の哲学に、その行方を求めたりするようですね。
だけど彼らは、一神教信仰を捨てるわけではないので、
みんなが喜ぶことがあるとすれば、それこそ一神教であり、
唯一神の意志だからこそ、個人を超えた価値があると考える。
個々の人々が認められるのは、神の下の平等なのです。
もしかしたら、こうした根元的な発想が違うから、
日本での民主主義は育ちにくいのかな?と思うのですが、
それならそれで、日本型の民主主義を考えればいいでしょう。
思想的な国民主権や、教条的な倫理観を超えて、喜ばしい!
天皇制が、今も国民に対して某かの力を持っているとすれば、
こうした根元的な発想の中にあることを知るべきだと思います。
百年の計で見れば罪深くとも、千年の計では功多いのかも。
花粉症に悩まされながらも、暖かい四月の風に吹かれて、
個々は少しずつ膨らみ、全体にそこはかとなく色めいた桜に、
何思うともなく、そんなことを浮かべてひととき過ごしました。
この写真は、初めてデジカメを手に入れた頃に撮った一枚で、
今でも自分が撮った桜風景では、一番のお気に入りです。
桜が咲いて誰もが心浮かれる、この国は喜ぼしの国♪
ジョン・レノンが見た夢は、どんな喜ぼしの世界かな?