おとむらい

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おくりびと」のアカデミー賞外国語映画賞受賞で、
このところ「死」に対する意識が高まっているようです。
それは現実の死が、生活から遠くなった裏返しかも知れません。
先日は近所の方が亡くなって、葬儀のお手伝いをしましたが、
十数年前に、僕の母が亡くなって葬儀をしたときに比べてさえ、
近所の住民が手伝う用はほとんど無く、業者の手順に従って、
すべては決められた時間通りに、淡々と進められるだけでした。

お通夜は、よほどのことがなければ週末で、葬儀は休日です。
通夜と言っても夜通しどころか、深夜まで別れを惜しむでもなく、
親しい人たちが、故人の想い出を語り合うこともありません。
スケジュール通りに、セレモニー会館に集まって受付を済ませ、
僕らお手伝い組は、そのまま会場の受付をお手伝いするだけで、
会場内のことや、様々な準備手配は、すべて業者の仕事です。
2時間ほどで挨拶や読経が終わると、それで全員帰宅です。

むかしは大勢の人が順次弔いに訪れて、喪主や家族と挨拶し、
故人の想い出を語り合いながら、お酒を飲んで時間を過ごした。
そのお世話をするために、近所の人たちの手が必要でした。
ところが今は、お香典を渡す以外には、何もすることがない。
決められた時間通りに、会場での儀式を済ませるだけなのです。
近所の人に迷惑を掛けないことは、それほどいいことなのか?
業者の手ですべて滞りなく、合理的な時間割があるだけです。

そう言う僕も、納棺夫日記青木新門さんが嘆かれた通り、
両親の死に目を見ていないし、納棺も業者任せで記憶がない。
せめてもの想い出が、父の時は公民館を使ったお通夜だったし、
自宅が好きで、病気が重くなっても自宅療養していた母の時は、
お通夜も葬式も自宅でやって、自宅から送り出すことが出来た。
そんなお通夜や葬式さえ、もう無くなってしまうのでしょう。
人はますます、バラバラな個になっていくのかも知れない。

思うに僕らは、様々な活動の中で個々人の自立を唱えるけど、
それはあくまで、自分の生き方や判断に責任を持つためであり、
ひとり(人離)では、人間として意味を成さないと知っています。
ロビンソンクルーソーでさえ、社会文化に希望を持って生きた。
どんな社会だろうと自分だけは善く生きる!とするのも同じです。
個々人が善く生きれば、必然的に社会だって良くなるのです。
その故人がどう生きたかを、話さないではいられません。