眼球の憂い

朝から頭痛がして、調子が悪いのです。
だけど外出する用事もあったので、
気分転換に図書館へ行くことにしました。
いつものように学習室へ直行して、
バッグから本を取りだして、開きましたが、
眼球が異常に疲れていて、読む気になれません。

目を閉じて、自分の眼球に意識を集中していると、
やがてぼんやりと、眼球の表面が見えてきます。
どうやらその表面が、少し濁っている感じがする。
眼球の中が濁っているのか、表面が濁っているのか、
はっきりしないけど、確かにクリアではない。

眼球の表面にある模様を追いかけていても、
なんだかすっきりしないし、頭が重い感じがする。
無理に本を読もうとしても、まったく気が入らない。
いつかはこの眼球も役に立たなくなるのでしょう。
一緒にいろんなものを見てきた眼球に感謝する。

この眼球がなければ、僕は僕でなかったかもしれない。
そのくらい、多くの大切なシーンでお世話になってきた。
五感の中でも、もっとも多くの情報をくれた眼球は、
僕が人生で得た喜びの、多くの部分を知っているけど、
こいつはやっぱりどこか知性的で、よそよそしい。

触覚や嗅覚のようには、官能的ではないので、
目で見ただけでは、親近感は今一つ薄い気がする。
そのぶん社会的な窓口で、距離が前提になっている。
たとえば女性の裸も、見るだけでは親近感がない。
触れあって、匂いをかいで、味を感じて親しみが沸く。

だけど見るだけでも親しみが沸く場合が一つある。
それはお互いの目と目があって、その奥を感じたとき。
まるで彼女の内部の奥底までを感じたりするのです。
そんなことが、僕なんかにも何度かあった記憶がある。
実はそう、これは大きな誤解を生む元でもあったけどね。

美しい風景、未知なる世界、愛らしい姿、新しい情報、
それらの多くを共にしてきた眼球とも、いずれ別れます。
本を読む気がしない頭で、眼球の模様を追いかけながら、
そんなことを考えて、静かな時間を過ごしていると、
喜びは感じられるときに感じておけばいい!
それが自然の摂理!と確信してしまうのです。