止観と正観

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今年のお正月三ヶ日は、どちらかと言えばラマダンのように、
この世界にあるもの、特に食事が出来ることに感謝して、
なるべく質素に、静かに家の中で暮らしていました。

そんな食事を取りながら、何冊かの本を読んでいたら、
「悟るには止観と正観があり~」の一文が目に止まりました。
10代、20代の頃には、悟りは一つの憧れでしたのに、
今では、悟りなど実生活には何の意味も与えてくれないと思う、
それは「止観」に過ぎず、もう一つ「正観」があると言うのです。

「無差別智に入って瞑想すると、外界の物象を見ても見えない。
それが止観であり、万物を歴然と素直に見とって悟るのが正観。
正観は非瞑想。止観は沈んでいき、悩みがないのに対し、
正観は飛揚的で、悩みが多い」と書いてあって、なるほど、
昔の人は、悩みの多い悟りと言うものも知っていたのですね。

「悩み多い悟り」?なんて、矛盾しているようでもあるけど、
自然を悟ってなお悩む、ここに人生の味わいがあると思いました。
あるいは、その方が人生の真実だと感じる感性の世界です。

本の著者である、胡蘭成は、詩経にある女心をたとえに出して、
「女子は好きな人を見て見飽きない。こんなにいい人をどうしよう!
この私が、まったく困ってしまう、この嬉しくてたまらない悩み、
諦めたような飛動的思想の姿は、瞑想や止観にはない」と解説する。
この説明では納得しきれないところもあるけど、だいたいはわかる。

止観はいわば、科学技術のように固定されてしまった真理であって、
正観はさらに、どうなるかわからない時間による変化を含んでいる。
科学技術的な真理は、過去の事実を延長して未来を予測するだけで、
そこには、命ある存在の新たな関わりが考慮されていないのです。
止観が正観に一本及ばないのは、そのためなのでしょう。

2008年の今年は、去年までよりも少し世界が見えていて、
あとしばらくの何かを、なんとかゆるゆる出来そうな気がしています。
言葉にならない世界でも、言葉によって表現されるのが不思議です!