庄川の洪水と治水

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砺波学の二回目として、「庄川の洪水と治水」講座がありました。
最近『近世砺波平野の開発と散村の展開』を出版された佐伯安一さんが、
庄川の松川除の歴史を中心に、話をしてくださいました。
その話の中で、あらためて砺波平野の歴史の古さを感じました。

庄川のことは、古くは雄神川と言って、万葉集にも出てくるのですが、
今ある庄川小矢部川に挟まれた一帯すべてが、扇状地だったんですね。
したがって、ひとたび庄川の水が増水すると、すぐに洪水になっていた。
そのために、井波、城端、福光、石動、中田と言った古い集落は、
すべて洪水に巻き込まれない高台に位置していたのだと思われます。

砺波平野一帯は、奈良平安の時代にはすでに荘園地帯だったわけで、
高瀬神社の近くには、当時に荘園を管理していたと思われる屋敷跡があり、
水路を巡らせた広い庭もあり、あたり一帯が穀倉地帯だったとわかります。
それが江戸時代になり、前田家が治めるようになって治水も始まる。

このとき、つまり江戸時代初期に、砺波平野の石高は20万石なのが、
200年後の明治初期には、28万石まで増えていますが、この増加分が、
庄川の治水管理によって、新しく開かれた水田によるのです。
この間に、今の福野、津沢、砺波、戸出などにも集落が出来たようですね。
その治水方法は、主に庄川の流れを東側にとどめようとするもので、
1670年から44年かけて作られたのが、松川除と呼ばれる土手なのです。

この土手は、庄川が山間から平野に流れ出る今の合口ダムから、
高台があって川の流れを分水していた弁財天まで、およそ1.5キロのながさで、
これを造るのに44年掛かっていながら、それでも洪水は収まらなかった。
松川除の下流では、何ヶ所かに「かすみ堤」が作られて、さらには、
撫枝(なでし)と呼ばれる、木を伐採しての濁流管理もしたようです。

それでも庄川の流れを完全に管理するまでには至らなくて、
明治時代になると、氷見出身の浅野宗一郎(文字未確認)なるひとが、
ダム建設を呼びかけて、国と電力会社が資金を出してダムが造られました。
これが今庄川にある一連のダムとなっており、このおかげで、
昭和9年の洪水を最後に、庄川での洪水はなくなったと言うことです。

ただしこのダム建設は、すでに水を管理していた水利組合と利害がぶつかり、
合意に至るまでには、さまざまな紆余曲折もあったようですが、
基本的には浄土真宗の信仰が強い地域だったので、知恵を出し合って、
たとえば以前から利権を持っていた水利には有利な条件をあてるなどして、
今の合口ダムを持って、いちおうの決着を得たようです。

今では、この庄川が砺波平野一帯を洪水にしていたなんて信じられないけど、
こうして歴史を知れば、なるほど古い町が山際の高台なのも納得できます。
明治期から昭和にかけて、砺波平野は豊かな穀倉地帯として発展し、
今でも日本有数の、上質な米の生産地として知られているわけですが、
さて、砺波平野の将来は、これからどのような姿を目指すべきなのか?
政治家だけに任せずに、しっかり考えていきたいものですね。


佐伯さんの本は値段が高いのですが、「地域農書」(↓)比較的お手頃かも。
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