盂蘭盆会を過ぎて
今朝の空には雲が広がり、猛暑もちょっと緩んだでしょうか。
子供の頃は如何に晴天の日が続いても、もっと涼しかった記憶がある。
この猛暑の連続は、地球が温暖化してしまったことが原因だけど、
まちづくりが機能性ばかり求めて、コンクリート化したことも一因でしょう。
昔は家の戸を開け放てば、裏の林から涼しい風が家中を吹き抜けた。
だけど今は、人口が減ったにもかかわらず建物は増え続け、
林どころか空き地に木立さえなくなって、風の通る道もない。
いつだか、まちづくりの検討会で、土の地面の大切さを訴えたら、
そんなものは山へ行けばいくらでもある、と笑われてしまった。
百年後には、この無作為なコンクリート化が笑われるだろう。
土も風も水も、どこかにあればいいと言うものではない。
少しでも多くの場所で、清い水と空気を満たす空間が必要で、
健康な土と樹が育つ場所には、さわやかな風も自然と生まれる。
そのようなまちづくりが、どうして人々に考えられないのだろうか?
戦争も原発も格差社会も、おカネ経済偏重のライン上にある。
盂蘭盆会の教えでは、自分が本当に救いたい人を救おうと思ったら、
あらゆる人に慈悲を施さなければ、当人には届かないことを教えている。
自分だけよければいいような競争社会を押し進めていく限り、
誰一人として、自分を救うことは出来ないことになるでしょう。
いくら働いて何を手に入れても、次々と不足するものだけが目立ってくる。
事実それが、現代社会の価値観が持つジレンマなのかもしれません。
さあ、それではどうすれば、このジレンマから逃れられるのか?
実はそう難しいことではなくて、実行しようと思えば誰にでも出来る、
だけど何故か故意にそこから遠ざかろうとする、慈悲の心の世界です。
少しでも多くの人を愛し、その人たちのために自分を生きる!
余計な既成概念や、こうに違いないとの社会的な思い込みを捨てて、
なるべく何ももたずにシンプルに生きることで、多くのものが手に入る、
そうした精霊の世界を知ることで、心を豊かに生きればいいのです。
少しでも多くの人が自然に近しく生きるようになれば、自然はよみがえる。
そこに身を委ねて、所有欲や執着を捨てることが出来た人だけが、
豊かな霊性の世界を生きることが出来るようになるのでしょう。
生者が死者と語らうことに意味があるのは、その違いを知り、
自らの生を活かす生活者となって、命を全うできるようになるからです。
そうした精神世界を抜きにして、人は真に幸せになることは出来ない。
今年もまた盂蘭盆会を過ぎて、そんなことを考えました。
写真は、僕からあまたの死者に捧げる、自然農の実りです。
子供の頃は如何に晴天の日が続いても、もっと涼しかった記憶がある。
この猛暑の連続は、地球が温暖化してしまったことが原因だけど、
まちづくりが機能性ばかり求めて、コンクリート化したことも一因でしょう。
昔は家の戸を開け放てば、裏の林から涼しい風が家中を吹き抜けた。
だけど今は、人口が減ったにもかかわらず建物は増え続け、
林どころか空き地に木立さえなくなって、風の通る道もない。
いつだか、まちづくりの検討会で、土の地面の大切さを訴えたら、
そんなものは山へ行けばいくらでもある、と笑われてしまった。
百年後には、この無作為なコンクリート化が笑われるだろう。
土も風も水も、どこかにあればいいと言うものではない。
少しでも多くの場所で、清い水と空気を満たす空間が必要で、
健康な土と樹が育つ場所には、さわやかな風も自然と生まれる。
そのようなまちづくりが、どうして人々に考えられないのだろうか?
戦争も原発も格差社会も、おカネ経済偏重のライン上にある。
盂蘭盆会の教えでは、自分が本当に救いたい人を救おうと思ったら、
あらゆる人に慈悲を施さなければ、当人には届かないことを教えている。
自分だけよければいいような競争社会を押し進めていく限り、
誰一人として、自分を救うことは出来ないことになるでしょう。
いくら働いて何を手に入れても、次々と不足するものだけが目立ってくる。
事実それが、現代社会の価値観が持つジレンマなのかもしれません。
さあ、それではどうすれば、このジレンマから逃れられるのか?
実はそう難しいことではなくて、実行しようと思えば誰にでも出来る、
だけど何故か故意にそこから遠ざかろうとする、慈悲の心の世界です。
少しでも多くの人を愛し、その人たちのために自分を生きる!
余計な既成概念や、こうに違いないとの社会的な思い込みを捨てて、
なるべく何ももたずにシンプルに生きることで、多くのものが手に入る、
そうした精霊の世界を知ることで、心を豊かに生きればいいのです。
少しでも多くの人が自然に近しく生きるようになれば、自然はよみがえる。
そこに身を委ねて、所有欲や執着を捨てることが出来た人だけが、
豊かな霊性の世界を生きることが出来るようになるのでしょう。
生者が死者と語らうことに意味があるのは、その違いを知り、
自らの生を活かす生活者となって、命を全うできるようになるからです。
そうした精神世界を抜きにして、人は真に幸せになることは出来ない。
今年もまた盂蘭盆会を過ぎて、そんなことを考えました。
写真は、僕からあまたの死者に捧げる、自然農の実りです。