花粉とアスベストと放射能

この花粉症の時期に、何日も外を出歩いたあとは、
それ以上の日数に渡って、体調が極端に悪くなります。
昼夜問わずに微熱と頭痛が続いていて、目と鼻が物憂く、
喉の奥にも、イヤなざらつき感が無くならないのです。
日常生活ができないほどではないから、普通に暮らすけど、
全身に巡る毒のような違和感は、生きることを疲れさせます。
今朝も寝床で、開かない目を指でなだめて頭痛に耐えました。
だけどこんな体調の悪ささえ、一ヶ月耐えれば治るでしょう。
そうはいかないのが、アスベスト放射能です。

このところ、アスベスト被害者の事がよくニュースになって、
何故そんな被害を被ったのかわからないまま発病する人が、
おおぜい紹介されているようですが、これもまた目に見えない。
本人が気付かないままに事態が進行して、深刻な状態になる。
これが現代における特徴的な社会問題の姿かも知れません。
(1)花粉は気付いたときには取り返しがつかない状態だった。
(2)アスベストは危険なものだと知らなくて被害を受けた。
そして同じように見えない危険は、確信犯的に進行しています。
(3)放射能はいつも意図的に危険性を隠されて進行する。

空を見上げて、青空が広がっていれば「天晴れ!」って言えた、
そのように清く無垢で美しかった日本は、もう失われています。
僕らは、道を間違えている指導者の絶大な支配の手の中で、
少しずつ膨らむ見えない恐怖に晒されながら、人生を過ごす。
重大な臨界事故は「みえない雲」を広げる可能性があったのに、
8年間も隠されて露見したあとでさえ、怒らない住民たち。
もしかすると、さらに見えない何かによって、多くの人々は、
すでに自分でものを考える能力を失ってきているのかも知れない。
「そうでない」とは言えないまで、見えない恐怖は広がっている。

僕は無用に悲観的になって、人を脅かしているだけなのだろうか?
見えない恐怖が杞憂なら、明日は思い切り深呼吸ができるはず!
だけどもう、そんなに楽天的に社会情勢を見ていられないから、
まず自分から、見えない恐怖と縁を切って生きたいと思うのです。
環境を犠牲にした経済の拡大ではない、命が循環する社会へ。
そのためにまず出来ることが、省エネとお金に頼らない生活です。
お金に頼るしかない生活を続ければ、貧富の格差もなくなりません。
必需品ほどお金に頼らない、自給自足に近い生活が出来れば、
貧富の差なんて人工的なものは、最小限に抑えられるでしょう。

自給自足と聞いて、200年前の生活に戻るのかと思う人は、
あまりにも無知で想像力に欠けているとしか言えません。
最新の技術を駆使して、誰でも自由に自分の生き方が出来る社会、
自分ではどうにもならない大きな力に依存するのではなく、
自分の生活や生き方は、自分の考えと判断で実現できる社会。
そうした社会の実現に向けて、ありとあらゆる技術を使えばいい。
たとえば日本で、同じように新しい技術がたくさんある中で、
臨界事故まで隠蔽して見えなくする肥大産業に頼るのではなく、
各家庭で、あるいは各地域で食とエネルギーを自給する技術、
すでにあるそうした技術を政策的に採用すればいいだけなのです。