小芝隆さんと「子どもの権利」
富山県内で実施された、いくつもの市町村合併は、
いったいどんなメリットがあったのか、僕は今も実感できません。
行政範囲が広がって、不便になった事だけは確かですが・・・。
そんな中で、行政も大きな転換期を向かえているのでしょう。
富山市では、さっさと中心市街地活性化法案に飛びついて、
巨大化した行政範囲の周辺部を無視する政策を進めていますが、
高岡市では、男女共同参画などを進める協働ルールが作られました。
やたら広がってしまった自治体の、住民全体の利益を考えるなら、
中心部の活性化より、市民と行政の協働ルールを作る方が大切です。
したがって今のところ、僕は富山よりも高岡の政策に共感できる。
そして中間に位置する射水市では、市民と行政の関係を占う、
大切な懸案、子どもの権利条案が検討され続けています。
今日はその市民検討会のグループが勉強会を開いていましたので、
その行方が気になり、僕も遠出をして参加してみました。
前半が小芝隆さんにお話をしていただいて、後半が意見交換。
富山短期大学幼児教育学科、付属みどり野幼稚園の小芝隆さんは、
射水市が合併する前の小杉町で、子どもの権利に関する条例作りに、
中心的な関わりをされた、先見の明の高い教育者でいらっしゃる。
彼は射水市での条例作りでも、取りまとめ役になられるようで、
その考え方などをうかがうのが、今回の勉強会の趣旨でもあり、
それを踏まえて、行政への要望を取りまとめようというものでした。
小芝さんのお話は、そもそも教育とは子どもの人格形成が大切で、
現代は家庭でも学校でも、子どもに心の安らぎを与えないから、
愛情不足で、感情が不安定な子が増えているのが問題だと言われる。
子どものケアをする場合にも、アドバイスばかりで共感が足りない。
もともとcare とは kara から生まれた「共に悲しむ」の意味だとか。
これを聞いて、「慈父」と「哀母」の話を思い出しました。
子どもが辛い目にあったとき、父親は慰めたり励ましたりする役で、
母親は、ただひたすら子どもと一緒になって悲しむと言うものです。
正しい正しくない以前に、子どもは愛情を必要としているのです。
人格が確立された大人ならともかく、まだ未熟な子どもの場合、
大人とは違う権利を持つ必要がありそうで、それこそこの、
一緒になって泣いてあげたり、一緒になって喜んだりする共感です。
子どもはこの共感によって自分を認め、安心できるのでしょう。
だから小芝さんは、アドバイスよりも聞いてあげる大切さを言われる。
そこには同時に大人の問題もあるようで、自己表現のつたなさなど、
特に富山県には、自己表現を抑圧する気風もありそうだとの指摘で、
市民活動で参加されている多くの人の共感を得ていました。
子どもの世界は、いつだって大人の世界の投影なのでしょう。
小芝さんのお話が終わった後での、意見交換会も活発なもので、
どうしても押し気味になる時間を、進行役の人が切り盛りされる。
前の小杉町町長さんからも、条例にまつわる話を聞けましたし、
こうした市民活動としての意見交換が、もっと活発になれば、
うまく自己表現できなくて、ストレスからいじめに繋がる事例も、
きっと無くなっていくんじゃないかと、そんなことも考えました。
ここでも高岡市のように、協働ルールがあれば役に立つでしょう。
いったいどんなメリットがあったのか、僕は今も実感できません。
行政範囲が広がって、不便になった事だけは確かですが・・・。
そんな中で、行政も大きな転換期を向かえているのでしょう。
富山市では、さっさと中心市街地活性化法案に飛びついて、
巨大化した行政範囲の周辺部を無視する政策を進めていますが、
高岡市では、男女共同参画などを進める協働ルールが作られました。
やたら広がってしまった自治体の、住民全体の利益を考えるなら、
中心部の活性化より、市民と行政の協働ルールを作る方が大切です。
したがって今のところ、僕は富山よりも高岡の政策に共感できる。
そして中間に位置する射水市では、市民と行政の関係を占う、
大切な懸案、子どもの権利条案が検討され続けています。
今日はその市民検討会のグループが勉強会を開いていましたので、
その行方が気になり、僕も遠出をして参加してみました。
前半が小芝隆さんにお話をしていただいて、後半が意見交換。
富山短期大学幼児教育学科、付属みどり野幼稚園の小芝隆さんは、
射水市が合併する前の小杉町で、子どもの権利に関する条例作りに、
中心的な関わりをされた、先見の明の高い教育者でいらっしゃる。
彼は射水市での条例作りでも、取りまとめ役になられるようで、
その考え方などをうかがうのが、今回の勉強会の趣旨でもあり、
それを踏まえて、行政への要望を取りまとめようというものでした。
小芝さんのお話は、そもそも教育とは子どもの人格形成が大切で、
現代は家庭でも学校でも、子どもに心の安らぎを与えないから、
愛情不足で、感情が不安定な子が増えているのが問題だと言われる。
子どものケアをする場合にも、アドバイスばかりで共感が足りない。
もともとcare とは kara から生まれた「共に悲しむ」の意味だとか。
これを聞いて、「慈父」と「哀母」の話を思い出しました。
子どもが辛い目にあったとき、父親は慰めたり励ましたりする役で、
母親は、ただひたすら子どもと一緒になって悲しむと言うものです。
正しい正しくない以前に、子どもは愛情を必要としているのです。
人格が確立された大人ならともかく、まだ未熟な子どもの場合、
大人とは違う権利を持つ必要がありそうで、それこそこの、
一緒になって泣いてあげたり、一緒になって喜んだりする共感です。
子どもはこの共感によって自分を認め、安心できるのでしょう。
だから小芝さんは、アドバイスよりも聞いてあげる大切さを言われる。
そこには同時に大人の問題もあるようで、自己表現のつたなさなど、
特に富山県には、自己表現を抑圧する気風もありそうだとの指摘で、
市民活動で参加されている多くの人の共感を得ていました。
子どもの世界は、いつだって大人の世界の投影なのでしょう。
小芝さんのお話が終わった後での、意見交換会も活発なもので、
どうしても押し気味になる時間を、進行役の人が切り盛りされる。
前の小杉町町長さんからも、条例にまつわる話を聞けましたし、
こうした市民活動としての意見交換が、もっと活発になれば、
うまく自己表現できなくて、ストレスからいじめに繋がる事例も、
きっと無くなっていくんじゃないかと、そんなことも考えました。
ここでも高岡市のように、協働ルールがあれば役に立つでしょう。