365件目の記事

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今日のこの記事は、このブログで365件目の記事になります。
以前の「ISO-BE通信」の時は、毎日何かを書き残していたので、
ちょうど一年分の記事になるのですが、このブログでは、
前日のことを書いても、日付は自動的に書いた当日になるので、
まして二三日も過ぎてしまうと、書く気がなくなってしまう。
おかげで365件の記事を書くのに、16ヶ月掛もかりました。
便利なものは自由度が少ないことの、いい例だと思います。
おかげで、目立つ内容のものしか書けていないのが残念です。

便利なものには、有無を言わず従わさせられる強制が潜んでいる。
だけどほとんどの人は、それを不自由だとも感じないどころか、
便利になってよかったと思っている人さえいるのでしょう。
現代人は、そのくらい自由度を失った状態で暮らしているのです。
それで多くの人が本当に幸せになったのならいいのですが、
心身共にストレスのたまった人がいかに増えてしまったことか。
さらにはそれが、明らかな障害としてさえ顕在化してきています。
人の心身にも社会全体にも、ストレスが弊害を生み始めている。

それでは何故、便利さは人を幸せにしないのでしょうか?
僕は自然農に挑戦しながら、その理由を実感として理解しました。
命ある人は、その命を存分に発揮することで喜びを感じるのに、
そうした自らの能力を、システムや機械に任せてしまっている。
これではいくら何を頑張っても、生きる喜びには繋がりません。
楽しく生きるために肝腎なのは、自ら自立して考えて生きる、
受け取って味わったことを自分なりに表現して新しい接触をさぐる。
そうした行為の中から、命あることの喜びが生まれてくるのでしょう。

現代の過剰な便利さは、人々からそうした喜びを奪っている。
幸せになるために大切なのは、みずから衣食住の担い手になり、
親しい人たちと、その味わいを共有していくことにほかなりません。
だからこそ、お互いに手作りのものを共有する喜びは大きいのです。
自分が知っている人の手作りの食品や衣類であれば、喜びも大きいし、
それらのものには、人の物語が繋がっているから豊かなのです。
人は人によってしか豊かになれないと、もっと自覚すべきでしょう。
今日は365件目の記事を記念して、思ったことを書いてみました。

今日の写真は、人間を幸福にする道具として優れた足踏式脱穀機です。