見巧者
ここしばらくのあいだ、
ブログに書きたいことがあっても、
スパスパ日が過ぎていったので書けなかった。
でもって、
ときどき思い出しながらでも書いておきたいことがある。
まずは近いところで、「見巧者」のこと。
なんの番組かわからないけど、
連休中にNHKの番組で江戸文化の話をしていて、
江戸の様々な芸の達人を巧者と言って褒め称え、
それをちゃんとわかる人を見巧者と呼んだとか。
これはなにも江戸時代に限ったことではなくて、
あるいは日本に限ったことでさえなくて、
世界中であらゆるすぐれたものには確かな評価者がいる。
これは龍村監督がよく言っていたことだけど、
映画だってそれがすぐれた作品として存在するには、
見る側にもそれなりの感受性がないと成り立たない。
どんなすぐれた内容、表現であったとしても、
それを感じ取って評価する人がいるから意味がある。
そう思えば、見巧者になることは大切なことだ。
何よりもまず、自分で判断出来ることが肝要だ。
現代は情報過多の時代になっているので、
集まってくる情報によってものごとを判断すると、
いずれ自分の本心が何かさえわからなくなる恐れがある。
情報はあくまで参考でしかないのだから、
まず自分の感性をしっかり実感出来ることが大切だ。
そのためには、自分の生き方を持っていること。
判断するのは、常に自らの主体でありたい。
ブログに書きたいことがあっても、
スパスパ日が過ぎていったので書けなかった。
でもって、
ときどき思い出しながらでも書いておきたいことがある。
まずは近いところで、「見巧者」のこと。
なんの番組かわからないけど、
連休中にNHKの番組で江戸文化の話をしていて、
江戸の様々な芸の達人を巧者と言って褒め称え、
それをちゃんとわかる人を見巧者と呼んだとか。
これはなにも江戸時代に限ったことではなくて、
あるいは日本に限ったことでさえなくて、
世界中であらゆるすぐれたものには確かな評価者がいる。
これは龍村監督がよく言っていたことだけど、
映画だってそれがすぐれた作品として存在するには、
見る側にもそれなりの感受性がないと成り立たない。
どんなすぐれた内容、表現であったとしても、
それを感じ取って評価する人がいるから意味がある。
そう思えば、見巧者になることは大切なことだ。
何よりもまず、自分で判断出来ることが肝要だ。
現代は情報過多の時代になっているので、
集まってくる情報によってものごとを判断すると、
いずれ自分の本心が何かさえわからなくなる恐れがある。
情報はあくまで参考でしかないのだから、
まず自分の感性をしっかり実感出来ることが大切だ。
そのためには、自分の生き方を持っていること。
判断するのは、常に自らの主体でありたい。