男女遊び

人間にとって一番の喜びや楽しみはと言えば、
自分が好きになった人を少しでも見たい聞きたい、
ちょっとでも触れていたいってことでしょう。
だけど男と女の関係においては難しいこともある。
男であり女であるがゆえに強く惹かれながら、
男と女であるがゆえに理解し合うことは難しい。
そこには埋まらない深淵が横たわっている。

女はその淵を言葉で埋めようとするけど、
男は饒舌が自分のものではないと知っている。
ここで男女が交わす言葉を解釈しても野暮だろう。
なにしろ女が求めているのは言葉を使う心なのだ。
ひたすら自分の方を向いていると確認していたい。
男は、湧き出でる自分を受け入れてもらいたい。
それをストレートにやりとりしようとすれば、
思うようにはならないことばかりで軋轢が起きる。
そこで遊び心が潤滑油になってくる。

男と女を分けた文化は日本でおおいに発達した。
同じようにラテン文化では物さえ男か女に分ける。
ところが英米文化にはこの彼岸の感覚が希薄だ。
そこで何もかもを一つの価値で計る文化が栄える。
これがグローバル経済の思想的根元かもしれない。
おっと話が大きく横にそれてしまった。

男女文化が発達したところでは何処でも、
男は男の特徴をデフォルメして見せることを知り、
女は女にしかできない表現を多様に持っている。
それは人工的に作り出されたよりも自然発生的で、
お互いが望むものをうまく強調してみせる技法だ。
それは単一価値による上下差別とは根元的に違う、
相手が自分とはまったく違う世界に属すると認めた、
畏敬の念さえも含んだ愛情表現だと言っていい。
この良さが現代ではなかなか理解されなくなった。

それでもまだ、わかる人にはちゃんと伝わる。
女言葉や男言葉は意味ではなく耳に届く音色だし、
体の特長を生かした装いは目と心を刺激する。
五感から得た喜びは想像力と絡み合って広がり、
男と女の埋まらない深淵を夢の世界に組み替える。
だからそう、男遊び女遊びには遊び心こそ大切で、
倫理や実利を求める人には向かないものだ。