「生きる意味」・序論Ⅱ

イリイチの内容を検証するのになぜ解脱なのか?
不思議だと思う人もいるかもしれませんが、
社会の常識に真っ向から疑いを持って検証し、
脱学校から開発批判、コンヴィヴィアルな道具へ、
と広がっていくイリイチの社会理解を見ていると、
常識からの解脱を示しているように思われるのです。
それは宗教的な解脱とは少し違うかもしれませんが、
どのように常識を脱ぎ捨てるのかは面白いです。

ケイリーはイリイチの4番目の指摘として、
(医療の限界)について述べながら、この指摘が、
「支配する職業」の告発に繋がることを解説している。
ここでは「こんにち健康が病因論的追求になっている」
だけでなく、国家権力によって保護された職業が、
「許しがたい反社会的行為」となると指摘している。
イリイチは国家権力による資格職業の構造を、
暴力団の冥加金と同じようなものだと指摘するのだ。
この事情は「無免許医師と、免許を持つ建築設計士」
として、僕も12月7日の記事に書いている。

それでは、教育批判さえも教育の中に取り込まれ、
健康が病因論的追求にすり替えられるのはなぜなのか?
イリイチはそこで「固定観念」の追求を始める。
そして(稀少性の仮定)にその原因を見いだしていく。
それは絶えず再生産される付加価値のようなものだろう。
実際には稀にしか手に入れることができないイメージで、
広くみんなが欲しがるように設定された幻想のことだ。
同時にまた歴史的な洞察から、金銭的な価値や、
共通言語への統一に対してまで疑問を投げかけている。
あらゆる道具をコンヴィヴィアルにする試みだ。

次に取り上げられるのはやっかいなジェンダーだ。
ジェンダーに対する社会の考え方は多種多様で、
さらにイリイチの考慮するジェンダーは特殊でもある。
彼が(ジェンダーとセックス)で主張しているのは、
価値観の一元化と統一への批判と受け取れる。
経済優先となる近代以前では、どの時代においても、
男性と女性は異なる世界に属していたことをみて、
「自分とは異なる他者性の経験」をジェンダーに見る。
近代以降は何でも統一した価値観で見てしまうのに対し、
ジェンダーは別世界であることで、劣性を寄せ付けない。

こうしてみてくると、イリイチは常に一貫して、
常識的な思い込みにメスを入れているのがわかります。
多くの思い込み常識の裏にある本当を示すことによって、
マスコミや学校教育では味わえない広さを持って、
われわれ人類の全身を映し出してくれるのだと思う。
今回取り上げた部分までは、比較的知られた内容で、
序文最後の検証をする次回の内容においては、
さらに哲学的と言っていいような考察が進みます。