永遠はありえないけど
いつのまにか赤ん坊ではなくなり、少しずつ子どもらしくなる、
毎日そんな姫を見ていると、様々なことを考えてしまいます。
小さな命の一挙手一投足を見れば、昨日と今日さえ同じではないし、
一週間前とは明らかに違い、一ヶ月前とは雲泥の差がついている。
その時々に姫の相手をしていると、何が一番いいことなのかは、
いつも同じではないし、この変化を捉えるのはとても難しい。
毎日そんな姫を見ていると、様々なことを考えてしまいます。
小さな命の一挙手一投足を見れば、昨日と今日さえ同じではないし、
一週間前とは明らかに違い、一ヶ月前とは雲泥の差がついている。
その時々に姫の相手をしていると、何が一番いいことなのかは、
いつも同じではないし、この変化を捉えるのはとても難しい。
それでも僕らは過去の多くの経験から、様々な知識を得ているし、
これから何がどうなっていくか、ある程度の予測は出来るはずです。
だからその予測に従って、何をどうすべきかも考えられるけど、
過去の経験と現在では、やはり同じでないと自覚している必要もある。
一見同じような姫の泣き方でも、先週と今日では何かが変わって、
恐怖であったり、不満であったり、覚醒であったりするのです。
10代20代の頃には、永遠の真実のようなものを求めていて、
それさえ手に入れたなら、安心立命で人生を過ごせると思っていた。
だけどわかったことは、普遍に変化するという事実だったから、
そのせつなさを胸に、日々の糧を求めて生きるしかなかったのです。
とは言え、普遍に変化するのが永遠の真実だとするならば、
過去を学んで執着せずに、新しい未来を生きる方法は得たのです。
僕を含めて多くの人は、幾度となく失敗を重ねながら生きますが、
何を大切に生きるかによって、失敗にも価値があったりしてきます。
誰かのことを思ってしたことは、結果として失敗したとしても、
その人を思って行動した事実によって、物語はそこに生まれています。
この物語性こそ、僕ら人間にとっては貴重な価値財産であり、
時間を越えて理解され、共感される意味と価値を持つでしょう。
一人一人の人間に、数値ではない何か価値があるということは、
個性による物語性によってこそ、普遍的に確認できることなのです。
多くの文学や芸術は、この物語性を表現することで個性を見せて、
僕らはその個性に共感したり反感したり、自分を映してみるでしょう。
そうして人を映す鏡としての文化こそ、人には大切なのだから、
どんな残酷な人であれ、文化そのものを無視しては生きられません。
20年前に予測された今は、良い方向よりも悪い方向へ進んで、
残念ながら喜べないことが多いけど、出来ることが増えたのも事実です。
当時の貧乏人の沖縄行きは、船に乗って2泊3日かかりましたが、
今や格安航空券で、同じ値段で3時間で飛んでいってしまうのです。
途中の海の風景や船中での出会い、港に近づくワクワク感は失っても、
行った先での時間を、有効に使うことも出来るようになりました。
これから20年後に、どんな時代が待っているのかわかりませんが、
姫が大人になって、自分で人生を歩み出す頃を考えたときに、
放射能被曝や強圧的な政治支配など、懸念材料はたくさんあります。
それでも僕らが知っているのは、悪いこともあれば良いこともあって、
人は昔と変わらずに、物語性を紡ぐことによって自分を生きるのだから、
善きことを信じ、人も自分も活かして生きてほしいと願うのです。