飄々として自由

政治的時代と言われて久しいですけど、
その意味をちゃんと理解している人は少ないようです。
まあこの言葉の解釈自体いろいろあるようで、
厳密に言えば多様な解釈があっていいのでしょうが、
そこに貫く共通の認識が必要なこともたしかでしょう。
そうでないとコミュニケーションが成り立ちませんからね。

さて一般に現代を政治的時代という場合には、
市民が大量の情報によって自分の意志を決定しており、
良くも悪くも情報次第の価値観で生きる時代を指すでしょう。
一貫した個人の人格などどこにもないような知識と教養で、
余所で問題が起きるたびに犯人探しに明け暮れる態度です。
こうした生き方に、自立した安心や豊かさはありません。
あるのはただ見えにくい煽動と追従だけです。

僕はこうした政治的時代に身を任せることはイヤなので、
普段からそうでない生き方を模索すると同時に、
それではこの政治的時代に、どんな生き方が可能なのか?
少しは理論的にも考えてみようと勉強をするわけです。
こうした勉強には「これでよし」と言うものはありません。
固定した概念は常に日常的に風化してしまうからで、
ここで重要な視点となるのは、あらゆる他者の存在です。

考えに考え、ときには絶望しながらもここにいる、
この自分が存在していることの奇蹟を思い知ったときに、
同じように奇跡的な他者の存在がよく見えてくるようです。
行き着くところ、世界は常にカオスでしかないのでしょう。
だからこそどのようにでも解釈可能で、自由なのです。
さらには自由であることに囚われすぎてもいけない、
未来は飄々として自由だから夢だって実現するのです。